EMOTION感性 NO.1391 R2-1-27 ◆明智光秀2020.02.02
NO.1391 令和2-2-3
◆明智光秀
本能寺の変で主君織田信長を討ち、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた男。明智光秀という人物において、多くの人が持つのは、反逆者のイメーシです。しかしその人生は多くの謎に包まれており、明らかになっているのは、信長と出会ってからの14年間だけです。
近年、研究が進み、これまでの光秀像とは違った姿も浮かひ上がってきています。従来の「悪人」「謀反人」という偏った見方が見直され、その人柄や優れた才能などが再評価されつつあります。(NHKで放映されるので注目されている)
光秀の前半生については確かな史料がほとんどありませんが、『明智軍記』『美濃国諸旧記』などに記された説が、有力だとされています。それによると、光秀が生まれたのは1528年(享禄元年)、生家は美濃守護家土岐氏の一支族、土岐明智氏だとされています。土岐明智氏は、東美濃の可児郡(現在の岐阜県可児市)明智城の城主でした。
もともと土岐氏とは、美濃源氏の名族で、室町幕府では美濃守護を歴任して美濃を中心に多くの分家があり、その有力者の一つが、明智氏だったのです。ただ、光秀の妹は「妻木」という土岐氏の別支族の名字で称されている記録があり、出自は妻木氏だという説もあります。
『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、光秀は進士信周の息子として生まれますが、生後間もなく母の兄である明智光隆の養子になったとあり光隆が子に恵まれなかったため、光秀は家督を継ぐために引き取られたのです。
その後、明智城で暮らしていた光秀ですが、1556年(弘治二年)、明智城は、斉藤義龍によって落城されてしまいます。明智氏の再興を託された光秀は城を脱出し、越前へと逃れ浪人の身となります。
越前に移り住んだ光秀は、長崎村(現在の福井県坂井市長崎)の時宗道場称念寺の一隅に住んだとされています。その後朝倉氏の家臣となったと伝えられていますが、確定できる史料はありません。
越前で光秀が仕えた人物としては、戦国大名の細川藤孝が有名です。奈良興福寺多門院の僧、英俊の日記やイエズス会宣教師フロイスの報告には、「光秀は細川藤孝に仕える身分の低い者であったが、まもなく信長に認められて出世した」と記されています。一方で信長が利用しようとしていた将軍、足利義昭の直臣名簿にも足軽衆の末尾に「明智」の名があり、これが光秀のことだとすると2人の主人に仕えていたことになります。
この矛盾は、信長と直接交渉するという重要な役割を果たすことになった光秀に対して、付け焼刃的に身分が与えられたからであろうと考えられています。藤孝は信長と表立って交渉をすることができない事情があり、光秀がその命を受けたと考えられます。信長との出会いにより光秀の人生は大きく動き始めました。(月間朝礼巻末より)
―ここからはNHK「麒麟がくる」を見ると面白いのか!
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