EMOTION感性 NO.1445 令和3-3-8 ◆青天を衝け 渋沢栄一2021.03.09
NO.1445 令和3-3-8
◆渋沢栄一 (青天を衝け)
自身の人生について「自分の身の上は、はじめは卵だったカイコが、あたかも脱皮と活動休止期を四度も繰り返し、それから繭になって蛾になり、再び卵を産み落とすような有様で、24、5年間に4回ばかり変化している」と語っています。
これは、栄一が時期によってさまざまな変化を遂げたことを意味し、明治の実業家としての活躍が知られる栄一ですが、最初からその道を志していたわけではありません。栄一の人生をたどると、大きく次のように時期を分けることができます。「尊王攘夷の志士として活躍した時期」「一橋家の家来となった時期」「幕臣としてフランスに渡った時期」「明治政府の官僚となった時期」「実業家となった時代」。
この経歴を意外に思う人もいるのではないでしょうか。日本の近代化を主導した人物として知られる栄一ですが、幕府側の人間として活躍していた時期もあったのです。波乱万丈の人生を順に追っていきましょう。
まず、栄一の青春時代にもあたる「尊王攘夷の志士として活躍した時期」です。栄一が少年から青年になる時期には、日本に大きな変化が訪れていました。たとえば1852年(嘉永5年)アメリカからペリー艦隊の来航、1854年(嘉永7年)日米和親条約の締結などです。欧米列強の驚異が日本に迫ってきたことから、「君主を尊び、外敵を斥けよう」という尊王攘夷の考え方が生まれました。栄一は、この思想に傾倒していきます。
栄一の従兄、渋沢成一郎(後に喜作を名乗った)は彰義隊を結成し、その頭取となっていました。
彰義隊とは、江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として結成された部隊で、江戸の治安を維持する活動をしていました。この成一郎をはじめ学問の師でもある尾高惇忠やその弟、長七郎などは、尊王攘夷論を支持し、栄一も共に当時の政治情勢について激論を交わしていました。
そして彼らは「高崎城を乗っ取る」という過激な計画を立案し、高崎城は、栄一たちの生家がある血洗島村からほど近く、攻め落とすのも難しい城ではなかったため、軍備を調達するため狙ったのだと考えられます。高崎城の武器を奪い、横浜を焼き払って外国人を襲い、志士たちの蜂起を促すという計画でした。
そして1863年栄一が23歳のとき、計画を実行しようとしますが、直前になって仲間の一人、尾高長七郎が止めに入ります。彼は京都に滞在していたため、最新の国内情勢に詳しく、高崎城の乗っ取りと横浜の焼討ちには成功の見込みがないことを説きました。
紙幣にもなる、大河ドラマがスタートです。主戦派だった栄一は、長七郎と激論を交わしますが、最後には中止を受け入れます。情報を冷静に分析し、最善の道を選ぶという、栄一の能力が発揮されたといえるでしょう。後に彰義隊は、1868年の上野戦争で、明治新政府軍に敗れて解散します。そして栄一には次の変化が訪れました。(月間朝礼誌より)
紙幣にもなる、大河ドラマがスタートです
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