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EMOTION感性 NO.1457 令和3-6-7  ◆渋沢栄一2021.06.06

NO.1457  令和3-6-7

◆渋沢栄一 ヨーロッパへ行く

水戸藩の原市之進がやってきます。慶応2年11月のことでした。彼は将軍徳川慶喜の側近でもありました。「相談したいことができたから来てくれ」とのことです。原が語ったのは思いもよらぬこと、「来年、フランスの首都パリで『万国博覧会』という大きな催しがひらかれることになっており、将軍の名代として徳川慶喜の弟である徳川昭武が派遣されることになった。

随行員の一人として同行してほしい」というのです。原が言うには、「随行員には昭武のお付きである水戸藩士7名が選ばれた。しかし、いまだに外国人を忌み嫌う頑固者ばかりなので、外国でうまくやっていけるか心配だ。頭の柔らかいお前に同行を頼むのがよいということになった」ということです。しかも栄一を指名したのは将軍慶喜だといいます。

降って湧いたような幸運でした。栄一は後に「その時の嬉しさは実に何とも讐うるに物がなかった。自分が心で思ったには、人というものは不意に僥倖が来るものだ」、栄一は「ぜひ行きます、どのような苦労も厭いません」とパリ行きを即答で承諾しました。

詳細を聞くと、出立は1ヵ月以内とのこと。さっそく故郷の父と従兄の渋沢成一郎(喜作)に書状で洋行する旨を伝えると、必要な物を買い、身支度を整えました。

出発間際となって、成一郎が江戸に戻ってきました。幼馴染であり、同じ志を持つ仲間でもある彼に、栄一は次のようなことを言います。「私は海外に、君はこの国に残るので遠く離れてしまうが、お互い死ぬときに恥を残さないような働きをしよう」。今生の別れの言葉とも取れる挨拶です。当時、長い旅の途中には死の危険もありました。その言葉は決して大げさではなかったのです。

1866年(慶応2年)12月29日、14歳の徳川昭武と栄一ら随行員が京都を出発しました。大坂から幕府の船で横浜に向かいます。1月にフランスの船「アルヘー号」でいよいよ海外に出航。

横浜の滞在中、栄一は初めての洋食を味わいました。当時、肉食に慣れない日本人の中には、洋食を受け付けない人も多かったようですが、栄一は「味甚だ美なり」と記しています(『航西日記』)。

特にコーヒーを気に入ったようで、異文化を素直に受け入れる柔軟さが早くも発揮されています。料理や飲み物だけでなく、ティータイムの習慣などにも興味を持ち感心しています。

外国を毛嫌いする水戸藩の従者とは違い、栄一の心は好奇心でいっぱいだったのです。アルヘー号は4日かけてまず清(今の中国)の上海港を訪れます。栄一は整備されたガス灯や電線に感心しながらも、ヨーロッパ人に使役される清の人々の貧しい姿にショックを受けます。そこには「いずれ日本も、こうなってしまうかもしれない」という不安もあったかもしれません。(月間朝礼より)

近代日本を作った一人、TV見てますか?

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