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EMOTION感性 NO.1471 令和3-9-21 ◆昨日の敵は今日の友2021.09.20

NO.1471  令和3-9-21

◆昨日の敵は今日の友

日本は過去、もしこの戦争に負けたら、日本はほろびるかもしれない、そんなことが何回もありました。日露戦争も、そういう戦争の一つだったのです。 明治三十七年の秋のことです。「乃本将軍はなにをやっているんだろう。旅順の攻撃を始めてから、もう三か月にもなるじゃないか」 戦争のなり行きを見守っている大本営の中からまで、そんな声があがり始めていました。そのころ旅順の港は、ロシア艦隊の根拠地になっていました。日本が、海を渡って軍隊を送るにも、弾薬、食糧を補給するにも、ロシアの軍艦がいて邪魔をしたのでは、思うようにいきません。

日本軍が旅順港を占領して、その邪魔ができないようにしてしまえるかどうかは、戦争の大勢を決める大きな問題です。このためにロシアもまた、旅順港をとりかこむ背後の丘に、堅固な要塞を築き、砲台をつくって海からも陸からも守りをかためていました。乃本将車は、陸から旅順を攻撃する第三軍の司令官だったのです。しかし、そのころのロシアは世界一の陸軍国です。ロシア軍の使っている機関銃は、日本車にはまだありませんでした。攻防は猛烈をきわめました。ロシア軍は、そのすぐれた武器と豊富な弾薬で、攻める日本軍に、雨のように激しい砲火を浴びせます。

日本軍の兵上はバタバタと倒れ、死傷者は要塞の斜面をおおいました。倒れても倒れても、日本軍は攻めのぼっていきました。このようにして。この年八月から十一月までの間に三回の総攻撃が行われ、十二月の初めになって、やっと要塞の要になっている丘の一角を占領することができたのです。この丘は二〇三高地と呼ばれ、ここから旅順港のロシア艦隊への砲撃が始められました。

年を越した明治三十八年一月一日、要塞を守っていたロシア軍の司令官ステッセル将軍は、ついに白旗を掲げて日本軍に降伏しました。

攻撃が始まってから百五十五日、後方部隊まで加えると、この攻撃に加わった十三万人の日本軍のうち、実に五万九千人の死傷者を出したという。一事でもこの戦いの激しさかよくわかります。

武人としての名誉を

要塞をあけ渡すための、乃木将車とステツセル将叩との会見は一月二日、水師営という村で行なわれ、会場には、戦火の中で残った。一軒の民家かあてられました。「降伏したロシア軍の司令官以下に対しては、十分に武人として名誉を重んじるように、と言う天皇陛下のお言葉もあり、将校以下は、帯剣のまま公議に出席してさしつかえない」乃木将軍からステッセルあてに、そういう伝言が送られていました。

つい二日前まで、敵味方にわかれて戦ってきた二人の将軍は、しっかりと手を握りあいました。「戦いに敗れた武人の体面にもお心づかいくださる日本国天皇のお気持ちは、感謝にたえません」

感激に瞳を輝かせて、ステッセルは言いました。「日本軍兵士の強さ、勇敢さにも敬服しました」、「お互いに、よく戦ったと思います」、乃本将軍はそう答えて、もう一度ステッセルの手を握りかえしました。

二人の将軍の顔にも言葉にも、半年近い歳月、激しい戦いをくりかえしてきた敵に対するような気配は、少しもありませんでした。

戦争はつらく悲しい・・会議を終わると、二人の将軍とおともの将校たちは、庭に出て、砲火の中でたった一本残ったナツメの木のドで、記念の写真をとりました。

山川草木 うたた荒涼

十里 風 なまぐさし新戦場

征馬すすまず 人かたらず

金州城外 斜陽に立つ

これは、乃木将軍の詩です。

広々とした戦場には、まだ血生臭い風かただよい、荒れはてた風景がひろがっている・

その中で、馬も足をとめ、人も黙って夕日に照らされて立ちつくしている

 

 

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