EMOTION感性 NO.1475 令和3-10-18 ◆エリート武士集団の一大決心 中條影昭2021.10.18
NO.1475 令和3-10-18
◆エリート武士集団の一大決心 中條影昭
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」
江戸時代、東海道を往来する人々の行く手をはばんだ大井川。川幅が広いうえに、水量が多くて流れも速く、増水すると川留めになるというこの“荒れ川”は、箱根の峠越え以上の難所として天下に名をとどろかせた話は知っています。大井川を渡る多くの旅人で江戸のようなにぎわいを見せたのが島田宿、現在の静岡県島田市です。
島田と大井川対岸の金谷・牧之原を舞台に、幕末から明治の激動の時代、刀を鍬に持ち替えて茶畑の開墾に精魂を傾けた武士集団の物語です。島田駅から二十分ほど南に歩くと「世界一長い木造歩道橋」があります(平成九年にギネスの世界記録に認定)。全長約九百メートルのこの橋は、今から百三十年以上前の明治12年に完成。名を蓬莱橋と言います。
ペリー来航をきっかけに、開国から明治維新へと激変するわが国。慶応三年(1867)十月、将軍徳川慶喜は、徳川幕府が委任されてきた政権を朝廷(天皇)に返上します。大政奉還です、これをもって徳川家康以来、265年間続いた徳川幕府が終わりました。
慶喜は江戸城で朝廷に対して恭順の意を示しました。このとき慶喜の身辺警護のため、武士による「精鋭隊」(のちに「新番組」と改称)が結成され、隊長は中條景昭40歳。幕府が家臣に剣術や槍術、弓術や砲術を教えるために設けた講武所で剣術教授を務める剣の達人でした。
新政府による「慶喜追討令」を受け、慶喜は江戸城を明け渡して上野東叡山の寛永寺に入って謹慎、そして新政府軍が江戸城に入城した4月には、生まれ故郷である水戸の弘動館に入って謹慎を続けました。
やがて徳川家の処遇が決まり、慶喜は同年7月、家康ゆかりの静岡市の宝台院に移住。十六代徳川家の家督は、田安亀之助(当時5歳、のちの徳川家達が継ぐことになり、七十万石の駿府藩主として、同年8月駿府に入りました。こうして徳川家が駿府に移り住んだことで、江戸から旧幕臣たちが駿河へと移住してきました。その数は家族や従者を加えると3万人とも4万人とも言われています。
明治2年6月、全国の藩主は天皇へ領地と領民を返還する版籍奉還を行いました。これにより全国の武士たちは藩から受けてきた家か禄ろくを失い、職も解かれることになりました。新政府に仕える者、刀を捨てて農民や商人となる者、あくまでも幕臣の道を貫こうとする者など、武士たちはそれぞれにみずからの生きる道を決断しなければなりませんでした。慶喜を護衛して江戸から水戸、駿府へと同行してきた「新番組」の隊員たちも同様です。激論の結果、中條隊長ほか数百人の隊員は、牧之原台地における茶畑の開墾を決断しました。それは「武士から農民になる」という一大決心でした。(月間朝礼誌より)
日本が近代へ移るステップの一例話しです
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