EMOTION感性 NO.1361 R1-6-24 ◆ジョン万次郎2019.06.23
NO.1361 r1-6-24
◆ジョン万次郎
幕末に日本とアメリカの懸け橋となったジョン万次郎を知っていますか。彼は14歳のとき、大きなハプニングに見舞われました。
漁師だった万次郎は、仲間と共に海で遭難し、アメリカの捕鯨船に救出されたのです。船はハワイに寄り、他の4人はそこで船を降りました。
しかし万次郎は自ら望んで船に残ります。船長の養子となりアメリカの文化に触れ、英語、航海術などの学問を身に付けました。
彼は後に日本に戻り、幕府の役人になります。そして、日米の関係に大きな影響を与える活躍をしたのです。
4人の漁師にとって、このハプニングは「不運」だったかもしれません。しかし、万次郎は「チャンス」だと捉えました。予期せぬことは、いつどこで起こるかわかりません。しかし、自分次第でチャンスに変えることはできます。
そのためには、普段からの思考が大切です。自分がどのような人生を歩みだいか、その答えを心に持っている大は、決定的な選択にも、迷うことはないでしょう。(月間朝礼5/16より)
Webで関連を見ると、『帰国から約2年たって、ようやく土佐へと帰国。そこでも取調べを受けるが、万次郎が日本語をほとんど忘れていたため、役人たちを困らせた。そこで、蘭学の知識があった絵師・河田小龍にあわせた、小龍は万次郎を自宅へ連れ帰り万次郎から英語や西洋事情などを学び、聞き取った。その内容をまとめたものが『漂巽紀略』。万次郎から得た西洋事情や思想といったものは小龍を通して多くの幕末維新の志士に伝わり、多くの影響を与えたとも言われている。その後万次郎は幕府に招致され、江戸へと赴いた。
直参旗本となり、中浜の姓を頂いた万次郎は中浜万次郎と名乗るようになった。その後、土佐藩校「教授館」の教授に就任。
教授館では、後藤象二郎や岩崎弥太郎といった人物らが万次郎から教えを受けた。万次郎は翻訳や通訳、造船などに力を注いだ。
安政4年(1857年)には軍艦教授所の教授になる。後に軍艦教授所の責任者となる勝海舟とはこの頃から交流があったようだ。
やがて通訳の任からは外されてしまう。しかし、日米和親条約の締結に影ながら尽力した。1860年、日米修好通商条約の批准書交換のために派遣された海外使節団の一員として「咸臨丸」に勝海舟や福沢諭吉らと共に乗船。
4人の遭難と言うハプニングから、3人は日本に帰ることを選んだ。字も書けない14歳がアメリカでの生活・・当時一人で未来に向かって挑戦した選択には敬服です。
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