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EMOTION感性 NO.1365 R1-7-22 ◆厳島の戦い2019.07.22

NO.1365  R1-7-21
◆厳島の戦い
戦国時代、毛利元就が陶(すえ)晴(はる)賢(かた)を奇襲で破った有名な「厳島の戦い」は、陶側かワナにはまるか否かで勝負の決まった戦いだった。
二万の大軍を擁する陶軍に対し、四千と戦力劣勢の毛利軍の勝機は、厳島に陶軍を布陣させられるかにかかっていた。通常の合戦では勝ち目がないため、狭い島に集結したところを奇襲しようというのだ。元就はまず、厳島の宮ノ尾というところに囮の城を築く。攻略のために陶軍が島に渡るようエサに使おうというのだ。さらに、元就は家臣の桂元澄に裏切りを偽装させる。

「陶軍が厳島に渡って、毛利軍とそこで戦っている間に、わたくしが毛利の本拠地で反乱を起こし、城を乗っ取りましょう」という書状を陶晴賢に送ったのだ。晴賢は、結局この裏切りを信じた。
陶方の家臣や軍師の中には、厳島に渡ることに反対する者もいた。もし晴賢がこちらの意見を取りあげていれば歴史は変わっていただろう。しかしぎりぎりの線で陶軍は厳島に布陣することに決定、毛利軍に勝利の女神は微笑んだ。
目の前にあるのが真の利益か、それともワナかという判断の正否は、最終的には結果論でしか計れない部分も出て来ざるを得ない。事前にできることは、目の前の利益や損失に正反対の要素をぶつけて、失敗のリスクを最小限にする努力、そして万が一読み間違えたときの周到な準備を重ねることだけなのだ。偽装の裏切り工作が勝敗を分けたのが厳島の戦いと言われている。

▲陶晴賢はどうして敗れたのか?
戦いを見ると、個々の武将の勇気や戦いぶりでは毛利軍にさほど劣っていないのですが、主将である晴賢の作戦能力の差によって敗れた、というのが結論と言われる。
狭い島に大軍を送り込み、柔軟な指揮が行いにくい状態を作ってしまったこと、毛利氏の上陸作戦に対する警戒が足らず、奇襲の成功を許してしまったこと、などが主な敗因として上げられる。
家臣の弘中隆包の意見に耳を傾けていれば、このような敗北を喫することはなかった、晴賢は勇敢ではあったものの、慎重さに欠けた武将だった、と言える。とあります。

孫子(2500年前に書かれている兵書)を読んでいたのか?「利益と損失の両面から物事を考える戦法」とある。これは孫子の兵法です。
事業は一回だけの勝・負けの戦いではなく、永く継続する事業の判断は、「正しいこと」を行うことです‥

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